使用カメラ La Sardina Camera 8Ball Edition
110フィルムを使ったDiana Babyで撮り始めた頃の写真。
現在、ミルクスタンドが現役で残ってるのは、他に御徒町駅のホームぐらいだろう。
サラリーマンにとっては通勤途中にサクッと朝食を摂れる場所、牛乳や乳飲料だけでも50種類以上の品揃いで、パン類などの軽食も扱う。
このミルクスタンドの歴史は意外と古く、昭和25年[1950]に御徒町駅で開業したのが始まり、翌年には秋葉原駅でも開業する。
当時は戦後混乱期、ようやく食糧難から脱出という頃だったろう、開業当初から需要が高かったのではと思われる。
秋葉原駅、総武線各駅停車と山手線・京浜東北線がクロスする駅で、乗り換え客が多いのか終日ごった返す。
つくば市と結ぶつくばエキスプレスや地下鉄も乗り入れており、ちょっとした交通の拠点でもある。
秋葉原というと戦後の電気街から始まり、現在はオタク産業のメッカになり、世界中に広まったのか訪れる外国人の数が爆発的に増え、寧ろ、日本人より多いぐらいだ。
しかし、もともとは「やっちゃ場」と呼ばれる青果市場の拠点で、その跡地が再開発され、現在に至る。
秋葉原電気街は戦後の闇市が源流で、そこでラジオ部品を売る露店が集まり、今もその名残を思わせる場所も見られる。
最近本店ビル解体が決まった「肉の万世」も、もともとはラジオ部品の露店だった。
秋葉原駅近くにある老舗居酒屋「赤津加」は昭和29年創業、闇市の名残りが色濃かったころからで、その当時からを思わせる佇まいの一軒。
アキバの喧騒から離れるのにうってつけで、正統派の酒と肴でゆっくり時間を過ごすのが好きだ。
そんな店構えの前にメイド姿がチラシ配りしている光景が上の一枚。
青春18きっぷを使って二泊三日の旅に出ました。
行きは東京から中央本線、大糸線を回って信濃大町までの普通列車の移動。
二日目に信濃大町から立山黒部アルペンルートを縦断して富山まで移動。
帰りは富山から三セクを経て、信越本線、上越線から高崎線を経て帰京。
この旅の最大の目的の一つが、立山黒部アルペンルート。
信濃大町からいろんな乗り物で移動して立山まで至る、全長約37.2㎞のルートです。
いろんな乗り物を体験するだけでなく、立山や黒部の自然に触れることができる、定番の旅です。
今回はそんな旅で撮った写真を集めてみました。
使用カメラ:LomoApparat
使用フィルム:Lomography Color Negative 35mm Film ISO 800(使用期限2024.01)
使用カメラ Diana+F
バスで世界遺産巡りをした翌日、帰京がてらに立ち寄ったのが飛騨金山。
飛騨金山から特急「ひだ」に乗り、1時間弱の飛騨金山駅に降り立ちました。
現在は温泉で有名な下呂市に組み込まれてますが、もともとは金山町という独立した町でした。
駅名に「飛騨」を冠していますが、金山町自体はもともとは美濃国に属しており、飛騨川と馬瀬川によって飛騨国と美濃国に分かれ、飛騨国側に駅があることで「飛騨金山」という駅名になっています。
金山町全域が飛騨国側に組み込まれたのは駅開業後の昭和30年です。
なお、飛騨国と美濃国が国境を巡って争った地でもあり、その名残とされる場所も残っています。
さて、飛騨金山は飛騨街道の宿場町として栄え、街道沿いにも往時の繁栄の名残りを思わせる街並みが残っていますが、一方で街道から外れるとを味のある細い路地が見られます。
その細い路地、人間の体の筋(すじ)と骨(ほね)のように複雑に絡み合うように迷路状になっていることから、飛騨地方では「筋骨(きんこつ)」と呼ばれています。
昭和40年代、馬瀬川上流に岩屋ダム建設にともない、金山町は賑わいを見せ、駅前から街道沿いにわたって商店が立ち並び、現在も当時のままの店構えが多くみられます。
同時に、筋骨と呼ばれる路地も昭和時代の映画のセットのような風景を見せています。
ガチな昭和レトロの街並みなので、フィルムカメラが合う街でもあります。
現在、飛騨金山では「筋骨巡り」と呼ばれる路地裏探検を前面に売り物にしていますが、平日は観光客の姿がなく、人通りが少ないので、普段の路地風景をそのまま感じることができます。
実際に人と出会った場面はほとんどなく、出会ったのも観光客は見られず地元住民ぐらいでした。
そもそも「筋骨」と呼ばれる路地も、普段は地元住民が通る生活のための道ですからね。
使用カメラ:LomoApparat
使用フィルム:Lomography Color Negative 35mm Film ISO 800(使用期限2024.01)
手前が馬瀬川、向こうが飛騨川、川の色が違うのが分かる。
二泊三日で富山県から岐阜を回る旅に出ました。
東京から北陸新幹線と在来線(第三セクター)乗り継いで高岡へ。
二日目の朝に高岡を出発し、五箇山の世界遺産になっている相倉集落と菅沼集落、白川郷の荻町集落と半日で縦断し、夕方に飛騨高山に到着しました。
白川郷で雨が降り出し、飛騨高山に着いた時には本降りになりましたね。
荻町城址展望台からの全景を撮ったのですが、雨のせいかレンズが曇ったのか、ぼやけた写真になってしまいました。
飛騨高山ではミラーレスカメラで夜の街並みを撮りましたが、雨の中の撮影で大変、それでも雨に濡れた夜の古い街並みは風情がありますね。
三日目は別の目的での撮影を経て帰京しましたが、それはまた別の記事で。
使用カメラ:LomoApparat
使用フィルム:Lomography Color Negative 35mm Film ISO 800(使用期限2024.01)
五箇山(相倉集落)
五箇山は富山県南砺市の旧平村、旧上平村、旧利賀村を合わせた地域の総称で、5つの谷から成り立つということで「五箇谷間(やま)」と呼ばれ、それから転じて「五箇山」という名前になったと言われる(諸説あり)。
五箇山と一言でいっても広いエリアで、そのうち「相倉」「菅沼」二か所の集落は、伝統的な茅葺屋根の合掌造り家屋が集まっていることから、1994年に国の重要伝統的建造物群保存地区に指定され、翌年には白川郷とともに「白川郷・五箇山の合掌造り」として世界遺産に登録されている。
相倉集落には現在、20棟の合掌造り集落を含め、24棟もの伝統的な茅葺屋根建造物が現存。
原始的合掌造りといわれる一軒。
現在の合掌造りの原型といわれ、現在この形で残っているのがここだけだという。
手前に見えるのが「放水銃」の保管箱。
木造家屋がほとんどなので、防火には気を使っているのがうかがえる。
定期的に放水銃による消火訓練が行われる。
五箇山(菅沼集落)
現在は9棟の合掌造り家屋と、相倉集落と比べて小規模ながら、コンパクトに密集している。
うち二軒が「五箇山民俗館」と「塩硝の館」という公開施設となっている。
有数の豪雪地帯である五箇山では、養蚕とともに火薬の原料となる塩硝の製造が盛んだった。
白川郷(荻町集落)
国の重要伝統的建造物群保存地区指定が1976年と早い。
同じ世界遺産でも、五箇山は観光客の姿がそれなりに見られる程度だったが、古くから「日本の原風景」として知られていることもあって、平日でも観光客が多く、特に近年は日本人より外国人の方が多いと感じるほどである。
そのほとんどが飛騨高山(最近は飛騨古川も)とセットでの訪問だろう、飛騨高山と結ぶバスは平日でも常に満杯になる。
集落内を散策してる辺りで雨が降り出し、展望台がある荻町城址についた頃には本降りの状態だった。
雨のせいでレンズが曇ったせいか、写りが霧に覆われた感じで曇っている。
普通なら失敗例だが、撮影時の気候状況を示すうえで、敢えて載せることにした。